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2006年5月27日 (土)

「鬼の帝 聖武天皇の謎」

(関裕二著、PHP文庫)

 聖武天皇は影が薄い。藤原氏や皇后の光明子のお飾りとしての印象が強い帝である。
 本当はそうではなかったと関氏は言う。
 では、どのようなものだったのか。

 聖武天皇は、持統天皇の子孫であり、母も藤原氏、皇后も藤原氏。最初から藤原の邸で育てられた、初代の藤原腹の天皇である。後に皇后となる光明子は、同じ籠の中で育てられたと言う。
 そしてある時期までは藤原の全くの傀儡として動く帝であった。
 聖武天皇の即位は神亀元年(724)。和銅三年(710)の平城京遷都以来、世は藤原氏の天下となっていた。
 養老四年(720)に藤原不比等が死んだ後も、四人の子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂ががっちりと藤原の天下を守っていた。
 当然反藤原派というのもいて、その最有力候補が左大臣であり、天武天皇の孫である長屋王である。ちなみに長屋王は持統天皇の血筋ではない。
 民衆からの支持は圧倒的に長屋王の方にあったが、長屋王は藤原の謀略の前にあっけなく倒されるのであるる。聖武天皇と光明子の間に生まれた子、基皇子が一歳を前に夭死する。長屋王は左道を学んだと言う言いがかりを付けられて一族もろとも自殺させられてしまうのである。。
 これで藤原の完全な天下になったが、なんと、天平九年(737)藤原四兄弟は天然痘により全員死亡してしまう。これで一気に藤原氏は衰退し、橘諸兄、吉備真備らが台頭してくる。

 ここから、聖武天皇は反藤原に転じるのである。
 天平九年、聖武天皇の母、宮子は37年間もの間藤原邸に幽閉されていたが、僧玄昉による宮子開眼事件、すなわち、聖武天皇、母・宮子、皇后・光明子による反藤原・天武回帰への道筋が出来上がっていくのである。聖武天皇は持統天皇の血もひいているが、天武天皇の血もひいているのである。
 天平十二年(740)、九州に左遷させられていた藤原広嗣が決起するものの鎮圧された。ここで、聖武天皇は天武系復活の宣言のごとく、天武天皇の壬申の乱をなぞって東国行幸を行い、そして天平十三年(741)恭仁京に移る。
 この恭仁京~紫香楽宮時代が聖武天皇の絶頂期であった。
 天平十五年(743)有名な大仏発願の詔。

 しかし、この後は天武天皇は藤原の反撃にあうのである。
 難波への行幸の途中、天平十六年(744)、藤原仲麻呂に子・安積親王を暗殺されてしまう。この後も、放火、流言蜚語の他、群発地震も手伝い、聖武天皇は平城京に戻らざるを得なくなる。
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇は天智系回帰を宣言させられ、孝謙天皇に譲位せざるをえなくなる。
 天平勝宝二年(750)、吉備真備が九州左遷。天平勝宝八年(756)、聖武上皇崩御。翌年(757)、橘諸兄薨去、大炊王(淳仁天皇)立太子、橘奈良麻呂の反撃失敗。その翌年(758)、孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位と、ここに天武系の反撃は一旦頓挫するのであった。

 ただし藤原仲麻呂の時代も長くは続かなかった。
 奈良麻呂の乱で443人が死罪または流罪という規模で、諸豪族の恨みは仲麻呂一人に集中した。光明子の影響で他の藤原氏が仲麻呂に冷淡だったことも手伝い、仲麻呂は一気に朝廷における影響力を喪失、天平宝字八年(764)、起死回生のクーデターを起こすも、九州から呼び戻された吉備真備らの活躍により鎮圧(恵美押勝の乱)。乱を鎮圧した孝謙上皇は、有名な

 「王を奴と成しても、奴を王と言っても、私の好きなようにすればよい。たとえ誰かを帝に立てたとしても、礼を失し従わぬようであれば、これを配せばよい。」

 との聖武天皇の命を述べ、淳仁天皇を廃し、称徳天皇が即位する。

 称徳天皇は、後世に有名となる弓削道鏡事件を起こすが、これは藤原のための天皇なら、もとの物部系の子孫すなわち道鏡に譲位して、いっそ天皇というものを潰そうと本気で思っていたものと考えられる。
 吉備真備も称徳天皇崩御の後、反藤原闘争を続けるが、復活した藤原一族には適わず、天智系光仁天皇が即位。吉備真備は失脚し

 長生の幣、この恥にあう

 と言い残し、職を辞する結果となる。

 ここに聖武天皇・光明子・称徳天皇の親子が戦った反藤原闘争は終わり、光仁天皇~桓武天皇と天智系が続き、桓武天皇の御世、平安京遷都により、藤原の天下・平安時代がはじまるのである。

 藤原氏の先祖は百済王族であり、百済王族は騎馬民族の扶余で、いわば少数民族で百済を支配していた歴史がある。
 そして藤原氏は律令の抜け穴を悪用し、朝廷を独占。実質的な日本乗っ取りに成功している。
 ここまでくれば、藤原氏は天皇位を簒奪する力はあっのに、最終的に実権のみの獲得で終わったのは何故だろうかという疑問がわく。
 それは聖武天皇が仕掛けた裏社会との共闘であって、裏社会は過去に藤原氏によって没落させられた物部氏の末裔が育てた文化でもあった。
 藤原が統治できない非良民の存在。その鬼の文化によって天皇はもはや藤原氏の手の届かない存在と化したのである。
 こうしてみると平安の鬼は、それなりの存在理由があったのだろう。
 天平の歴史をなぞるため長くなってしまったが、こうした見方もできるという。この歴史の面白さは、なかなかである。

2006年5月24日 (水)

「聖徳太子の秘密」

~「聖者伝説」に隠された実像に迫る~

(関裕二著、PHP文庫)

 聖徳太子には謎が多い。
 例えば、隋へかの有名な「日出づる処の天子」の国書を記したとされるが、隋からの外交使節に応対したのは誰かとの記載は日本書紀には無い。
 隋の記録はというと、推古時代のはずであるのに隋の代表は「大王」に会ったと記されている。
 このように日本書紀自体が謎とも言えるのである。

 著者は語る。
 聖徳太子は上宮、上の太子であり、中宮あるいは中の太子が天武天皇、下の太子が天武天皇の孫の長屋王ではないか。
 聖徳太子は用明天皇の子、天武天皇は用明天皇の子(または孫)と考えられる高向王の子で、あるいは聖徳太子と天武天皇は親子であったかもしれない。
 聖徳太子は、「日本書紀」が創った、蘇我系皇族の象徴だった可能性もある。
 蘇我系・天武系王統を後の天智系王統は全く大切にしていない。
 にもかかわらず、蘇我・天武天皇一族の祟りを恐れ、一族の寺である法隆寺を恐れたのではないか。
 それは、天智天皇・中臣鎌足の組が、蘇我入鹿を始めとして孝徳天皇の側近に至るまで蘇我一族をテロや冤罪で粛清して権力を手に入れ、天武天皇が壬申の乱で一度蘇我系に戻したところで、次の持統天皇・藤原不比等の組が、再び天武天皇の子孫を悉くテロや冤罪で粛清していった、その流れが、藤原氏に祟りの恐怖を与えたのであろう。

 明治の王政復古は、古代の歴史や倫理観がそのまま復活している。日本書紀の重用も、一度中世に没落していた藤原氏の復活も謎である。
 著者は言う、

 『日本書紀』編纂の中心に藤原氏がいたとされているから、彼らの隠然たる勢力は、今日の史学界にも大きな影響を与えていると考えるのは、はたして深読みが過ぎるであろうか。

 古代史と言うのは過去だけではなく、現在にも多大な影響を与えているようである。

2006年5月23日 (火)

「継体天皇の謎」

~古代史最大の秘密を握る大王の正体~

(関裕二著、PHP文庫)

 継体天皇というと一般には王朝交代という四字熟語が想定される。その前の武烈天皇が悪政の限りを尽くしていると記載されていることから、中国式な連想から考えられているものである。
 ところが、継体天皇が何故応神天皇の末裔とされているのかが謎となってくる。

 応神天皇は神功皇后の子であり、関氏の説では神武天皇や大物主神の子孫・大田田根子に当たる人物である。
 神功皇后の別人格は記紀にいろいろある。その中にコノハナサクヤ姫がいるが、コノハナノサクヤ姫を母とし炎の中から生まれた子に、彦火火出見尊(=神武天皇の可能性)と火明命(尾張氏の祖)がいる。敗走した神功皇后の子孫は、一つは南九州へ逃れ、一つは東国へ逃れたのではないか。そして東国へ逃れた子孫は尾張氏となったのではないか。
 そしてヤマトが困窮したとき、もう一方のトヨ(神功皇后)の子孫が求められた、それが継体天皇なのではないか。
 継体天皇の擁立がヤマトの王権のリセットとなり、この後蘇我氏や尾張氏がヤマトの運営に影響力を持つようになるのである。

 継体天皇は、やはり大きな謎を秘めているに違いない。
 それは通説のように新王朝故の謎ではなく、ヤマト建国に遡る謎であろう。

 こういった仮説は非常に面白いものである。

2006年5月18日 (木)

「神武東征の謎」

~「出雲神話」の裏に隠された真相~

(関裕二著、PHP文庫)

 今の世の中で神武東征というと「神話」として扱われる。「歴史」ではないというわけである。
 しかし、著者は、

 「神話や神武東征は歴史ではない」という戦後史学界の頑迷なる思い込みが、歴史を見る目を曇らせてしまった

 と悲痛な叫びを上げている。
 山陰地方から古代遺跡が出ても「出雲」は神話のままになっている。

 では神武天皇とはどのような存在だったのか。
 日本書紀や古事記の中にばらばらになって、しかも繰り返し出てくる存在になっていると言う。
 日本書紀は通説のように天武天皇の為に書かれたものではなく、その当時国家を席巻していた藤原氏の為に書かれたものである。
 そのためヤマト建国の際の事象が全くわからなくなっている。

 鍵は「日向」であり「出雲」である。
 弥生後期に北部九州が鉄の独占を狙い、関門海峡を封鎖してしまったことから一つの歴史が始まる。このため中国地方以東の国々は日本海側の出雲経由で鉄を手に入れることになる。出雲は繁栄し中心的な存在となり、吉備、越、尾張といった国々と連合し、ついに北部九州のヤマト(山門)を破るに至る。
 おそらく中国での後漢、三国時代、晋といった戦国の世の激動が、列島の方にも大きく影響していたはずである。
 筑紫の山門の卑弥呼は、ヤマトのトヨ(神功皇后)に敗れ、天岩戸の事件となる。しかし、九州派遣軍の神功皇后(トヨ)もヤマトの出雲と対立し、敗走し、出雲の国譲りとなっている。そして南九州に逃れていた神功皇后の子・応神天皇のヤマト入りが、神武天皇のヤマト入りであり、崇神天皇時代の大物主神の子・大田田根子のヤマト入りである。

 非常に面白い、わくわくする仮説である。
 中国大陸は殷周革命、春秋戦国、前漢後漢、三国志時代と騒乱が絶えなかった。例えば後漢末期、黄巾の乱、三国志時代には、戦乱のため人口は三分の一とか十分の一とかになったと言う。減った人は全部飢餓や戦乱で死んだのだろうか。そんなはずは無いと思うのである。
 想像はいくらでも膨らむ。

2006年5月14日 (日)

「壬申の乱の謎」

~古代史最大の騒乱の真相~

(関裕二著、PHP文庫)

 壬申の乱というと、天智天皇の子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)が戦って大海人皇子が勝った事件ですが、これが昔からいろいろと話題の種になっています。
 天武天皇は天智天皇の弟ではなく兄ではなかったのかとか、何故武力の無いはずの天武天皇が近江朝正規軍を擁する大友皇子に勝つことができたのかとか。
 実は大海人皇子は蘇我系の正統な継承者であり、尾張氏とも縁が合った。そして隠棲していた吉野から尾張氏の地盤の東国に無事逃げたことで、勝負が決まったのである。すなわち精強な東日本の兵力が悉く天武天皇側に付いたことで、近江朝側の兵士は恐れをなして逃げ去ったのである。

 日本書紀が天武天皇の命令で編纂されたと言うのはかなりあやしい。藤原の祖、中臣鎌足(=百済王・豊璋)を賛美するため、天智天皇(中大兄皇子)・大友皇子親子と天武天皇を賞賛して見せたのではないか。そして天武天皇の系譜をうまいこと抹消したのではないか。面白い説です。

 天智天皇と天武天皇の長幼が逆か否かというのはもうどうでもいいのです。聖徳太子とされる人物の没年が推古29年かそれとも30年か、大海人皇子の生年が推古31年か否か。これを隠すために日本書紀が編まれていたとしたら、非常に面白いことになりますね。

2006年5月11日 (木)

「大化の改新の謎」

~闇に葬られた衝撃の真相~

(関裕二著、PHP文庫)

 大化の改新というと、中大兄皇子と中臣鎌足が専横を振るう蘇我入鹿を成敗し、古代の行政改革を進める魁となった事件と、一般には考えられている。
 しかし、実際には違うのではないか、というのが著者の意見である。
 聖徳太子が導入しようとした律令制度は、蘇我系政権下で実施されようとしたが、それを潰したのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(実は百済王・豊璋)の組であった。壬申の乱で一旦は蘇我系の天武天皇の政権で行政改革が進められたが、天武天皇崩御後、持統天皇(天武の娘)と藤原不比等(鎌足=豊璋の子)の組が改革を骨抜きにしてしまった。律令制度は欠陥だらけの法制となり、この後、藤原氏は権力を利用して土地を私有する(荘園)こととなる。
 中世、武士が勃興し、源頼朝が鎌倉政権を作ってやっと、藤原氏が国家を私する時代が終わることになる。

 乙巳の変とは、改革ではなく改革つぶしだった。
 この視点は新しい。
 なんだか、現代の相にも似ている。
 それもそのはず、歴史はつながっているからである。

 特にこのシリーズが気に入っているのは、単に古代の謎解きだけではなく、各章の最初に書かれているコラムが秀逸だからである。
 いくつか挙げる。まず、明治維新について書かれたくだり:

 極論すれば、明治維新は理想に燃えた若者たちの夢を食い尽くし、現実を泳ぎ回るのに巧みな小人物たちだけが残り、彼らが浅知恵で急ごしらえした改革事業ということができる。その結果、多くの弊害を後世に残してしまったとはいえないだろうか。派閥がものをいい、官僚がのさばる社会が完成した。(第一章)

 その他の章も、本シリーズが扱っている古代史とその後の日本の歴史とを合わせ鏡にしたコラムが書かれており、これだけでも読み物として面白いできになっている。

2006年5月 9日 (火)

明日の世界はどっちだ?な観測

 国際ニュース解説の田中宇さんが、「IMFが誘導するドルの軟着陸」と「通貨から始まったアジア統合」の2本を書いています。
 まあ、ドルはもうあかんやろ、ってことでしょうか。
 来年はアメリカも不景気になるとこが予想されています。理由は長期金利と短期金利の利率逆転。詳しい解説はどこか専門のサイトで見てください。石油高騰と住宅バブル崩壊が引き金になると言う人もいますが、まあどちらにしろ来年は危ない、と。今年の中間選挙あたりが華になるのかな。
 日本に目を転じると、2007年から団塊の世代の大量退職が始まります。日本の社会にとって未曾有の体験になることは間違いないのですが、こうも不安定な要素が多すぎると読めない。

 乱世になりそうな予感がします。
 ある意味楽しいかも。

2006年5月 7日 (日)

「ファイザーCEOが語る 未来との約束」

(ハンク・マッキンネル著、村井章子、ダイヤモンド社)

 製薬業界の世界一企業、米国のファイザー社の会長兼CEOが書いた医療への希望と願いが込められた本。
 ご存知のように、日本も米国もそして世界中の国々で、従来の医療制度に黄信号が灯っている。総医療費の増大、医療事故の増加、そして医療に対する不安と不信。皆真面目に対策を考えているが何かが間違っているのではないか。それに対して製薬業界のトップが投げかけた、こういう考え方があるという問いかけ。医療を患者と医者の関係に戻そう、治療も大事だがもっと予防に重点を移そう、そういったことが書かれている。
 製薬企業の経営者が自分達の都合の良いように書いていると見る人もいるだろう。そういった読み方もあると思う。しかし内容は非常に真摯なものであるし、一顧の価値はある。
 なお、中のエピソードにも良いものがあるので、それだけでも面白い。

 著者は"自分の健康には自分で責任を持つ"を始めとして10の提言を行っている。詳しくは本書を読んで欲しい。あまりにも楽観的で魅力的で、しかしながら今までの各国政府の思想と全く反対の方向であるので実現は非常に難しいと思う。
 医療関係の端っこに位置する者として、良い提案の一つだと思われる。
 興味のある人はぜひ一読を。あなたの健康や医療に対する視点が変わるかもしれない。

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今日の月齢

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