「神武東征の謎」
~「出雲神話」の裏に隠された真相~
(関裕二著、PHP文庫)
今の世の中で神武東征というと「神話」として扱われる。「歴史」ではないというわけである。
しかし、著者は、
「神話や神武東征は歴史ではない」という戦後史学界の頑迷なる思い込みが、歴史を見る目を曇らせてしまった
と悲痛な叫びを上げている。
山陰地方から古代遺跡が出ても「出雲」は神話のままになっている。
では神武天皇とはどのような存在だったのか。
日本書紀や古事記の中にばらばらになって、しかも繰り返し出てくる存在になっていると言う。
日本書紀は通説のように天武天皇の為に書かれたものではなく、その当時国家を席巻していた藤原氏の為に書かれたものである。
そのためヤマト建国の際の事象が全くわからなくなっている。
鍵は「日向」であり「出雲」である。
弥生後期に北部九州が鉄の独占を狙い、関門海峡を封鎖してしまったことから一つの歴史が始まる。このため中国地方以東の国々は日本海側の出雲経由で鉄を手に入れることになる。出雲は繁栄し中心的な存在となり、吉備、越、尾張といった国々と連合し、ついに北部九州のヤマト(山門)を破るに至る。
おそらく中国での後漢、三国時代、晋といった戦国の世の激動が、列島の方にも大きく影響していたはずである。
筑紫の山門の卑弥呼は、ヤマトのトヨ(神功皇后)に敗れ、天岩戸の事件となる。しかし、九州派遣軍の神功皇后(トヨ)もヤマトの出雲と対立し、敗走し、出雲の国譲りとなっている。そして南九州に逃れていた神功皇后の子・応神天皇のヤマト入りが、神武天皇のヤマト入りであり、崇神天皇時代の大物主神の子・大田田根子のヤマト入りである。
非常に面白い、わくわくする仮説である。
中国大陸は殷周革命、春秋戦国、前漢後漢、三国志時代と騒乱が絶えなかった。例えば後漢末期、黄巾の乱、三国志時代には、戦乱のため人口は三分の一とか十分の一とかになったと言う。減った人は全部飢餓や戦乱で死んだのだろうか。そんなはずは無いと思うのである。
想像はいくらでも膨らむ。
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神武天皇のお名について触れました。
ひとつの仮説としても、読んで頂ければ嬉しいです。
東征に付いても、そのうち詳しく紹介するつもりです。
投稿: びーちぇ | 2006年5月23日 (火) 12時22分
ビーチェさん、こんばんは。
TB・コメントありがとうございます。
古事記や日本書紀は八世紀までの日本の歴史を完全にかき混ぜてしまっているという、いろいろな人の説は全くその通りに違いないと思うわけです。
なにしろ、何度読んでもわからない。
ヲシテの文献が古代日本の謎を解き明かすことができれば、それは凄いことだと思います。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 地蔵 | 2006年5月23日 (火) 22時13分