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2012年3月14日 (水)

内田樹と一般的教育技術の非存在と祝福

◆不便さと教育
http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_1013.php

 内田先生の寄稿文要約です。

>卓越した教育機関が卓越しているのは「卓越した資質を持った若者たちが、そこに惹きつけられて集まってきた」からである。

 この方向の逆(良い学校だったから良い生徒が輩出された)を想起する人も多いのですが、内田先生の言いたいことが実感できる人も多いはず。
 そして次の言葉に集約されます。

>こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。

 しかし、それは人間の本質的な開放性を担保していると述べられます。

>それは言い換えると、あらゆる人間のあらゆる言葉、あらゆるふるまいが、子どもたちにとっては「学びのトリガー」となる可能性があるということである。

 そして内田節です。

やがて知的なブレークスルーを担うようになる破格にイノヴェーティヴな子ども(千人に一人くらいの確率でいる)にとって、目の前に立つ教師のほとんどは(残念ながら)知的にはあまりインスパイアリングではない。けれども、「教師が十分に知的に啓発的ではなかったためについに才能が開花しなかった天才」というようなものを私たちは想像することができない(その程度のことで萎れてしまうものを私たちは「才能」とは呼ばない)。教師は、しばしばその狭隘さや愚鈍によってさえ子どもの学びを起動させることができる。「なぜ教師たちはこれほど愚鈍なのか?」という問いはある種の子どもたちを「学校」や「教育」についてのメタ認知に導く(彼らはいずれ「誰であれ教壇の向こうに立っていてさえいれば教育的に機能する。人は教える立場にある限り、教えることができる」という人類学的知見にたどりつくだろう)。

 さらに内田節。

自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。

*****

 内田先生が言うように、頭のいい奴は教育云々じゃないし。
 「反面教師」というのも伊達じゃない。

 基督教の方には単語の使い方に異論があると思いますが、
 人がある時点で急に成長するのは人類の祝福だと思います。

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