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2012年3月20日 (火)

内田樹とジャック・ラカンと教えるということ

 内田先生の寄稿文からということです。

教育の奇跡(内田樹の研究室)

>「教育はビジネスの言葉づかいでは語れない」という原理的なことを確認するために書いた。

 という事でジャック・ラカンを引用します。

「教える」という営みの本質についてもっとも洞察に富んだ言葉を残したのは、フランスの精神分析家ジャック・ラカンである。ラカンは(やがてフランス中の知識人がエコール・ノルマルの講堂を埋め尽くすことになる)その伝説的なセミナールの最初の時間にこう述べた。

「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(・・・) 無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。」(ジャック・ラカン、「教えるものへの問い」、『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』、小出浩之訳、岩波書店、1998年、56頁)


人間は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。 これは「教える」ということについて語られたうちで、もっとも挑発的で、もっとも生産的な命題の一つだと私は思う。教えることを職業にしているすべての人間はこの命題にまっすぐに取り組んで、自分なりの解釈を下す義務があると私は思う。

 次のセンテンスも秀逸。

「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。
教師は別にとりわけ有用な、実利的な知識や情報や技能を持っており、それを生徒や弟子に伝えることができるから教師であるわけではない。
これが教えることの逆説である。
教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」という確信を持っている人々の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能する。彼に就いて学ぶ人たちは「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶ

 ただし、内田先生も若いときは人間というものに対して錯誤があった。それをこう述懐する。

残念ながら、その後、私たちは大学に進学した後に「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、すこしも人間的に卓越しているわけではない」という事実を意地悪く暴露して、教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、「言うべきではなかったこと」だった。それに気づくほどに私たちは大人ではなかった。

 自分が教える立場になってからの述懐。

実際に自分が教卓のこちら側に立つことになって、私は「教育制度」を支えている「氷山の水面下の部分」には大量の人類学的な叡智が埋蔵されていることを知った。
私が知って驚倒したのは、「教師は自分が知らないことを教えることができ、自分ができないことをさせることができる」という「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。 それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。
教師であるためには一つだけ条件がある。一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。
自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ。なぜか、学ぶことができる。この不条理のうちに教育の卓越性は存する。それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。
長い時間をかけて、この巧妙な制度を作り上げた先人たちの知恵に敬意を払うこと、それだけが教師の条件だと私は思う。
もし、生徒たちが学んだことは、どれも教師がすでに知っていたことの一部を移転したにすぎないと思っている教師がいたとしたら、私は「そのような人間は教卓に立つべきではない」と思うし、当人にはっきりそう告げるだろう。 その人には「教育制度に対する敬意がかけている」からである。
教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。
教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を知識において技芸において凌駕することが日常的に起きるという事実のうちにある。「出力が入力を超える」という事実のうちにある。

 教育はy=f(x)ではちょっと語ることはできないというところに同意します。

 蛇足を覚悟で付け加えるならば、内田先生が比較対象としているビジネスも必ずしもy=f(x)ではないというところがあると思いますが。

*****

 こうやって文章で語られると、あらためて人類って不思議な存在だなと思います。

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