#define
左っぽいもの
プロセスを敵視しがち。
結果の平等を重視しがち。
順位を敵視しがち。
右っぽいもの
プロセスを重視しがち。
結果の平等を敵視しがち。
順位を重視しがち。
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また内田先生watchingです。
今回は4/4のエントリー、
◆「リアリスト」に未来はあるか?
大阪の入学式の話題を広げていきます。
もちろんお相手は橋下徹大阪市長です。
内田先生の主張です。
私が統治システムにかかわることで主張しているのは、つねに同じことである。
「その政策は健全な公共心をもつ成熟した公民をつくりだすことに資するかどうか」
それだけである。
ある意味右派だろうが左派だろうがこれには賛意を示すでしょう。
そして内田先生の国家観が述べられます。
国民国家は擬制である。
福沢諭吉はもっとはっきりと「私事」だと言った。
(中略)
国民国家は本質的に恣意的な構築物である。
次が素晴らしい。
だが、それがきちんと機能するためには、それがあたかも自然物であるかのように、天来のもの、神授のものであるかのように、ふるまってみせる必要がある。
「自作したもの」をあたかも遠い昔からそこにあった自然物でもあるかのように崇敬してみせることができるかどうか。
それが「できる」ということが市民的成熟のひとつの条件だと私は思っている。
卓見です。
こんなにきれいに叙述できるのはすごいです。
さて、次からが議論したいところとなります。
国旗国歌に対して「適切にふるまう」ことができるのが成熟した国民国家成員の条件である。
右派は儀式を重視します。
内田先生は「過剰に重視する」と見るかもしれませんが、過剰なのは原理派であって右派ではなさそうです。
翻って左派は儀式を軽視します。
これも過激派は儀式自体を排除の対象とします。
卒業式や入学式といった式自体を攻撃するのであって、日の丸君が代なんか言い訳に過ぎません。
実際君が代論争で敗北したと見た組織は次の矛先を仰げば尊しに切り替える動きを見せています。
(→ポスト「君が代」問題か 『仰げば尊し』を問題視する意見も)
そして次の文がとても気になりました。
そうなると、かつてふるさとの山河や草木のような「自然物」に向けたのと同じ素朴な感情を、そのまま国旗や国歌に対して持つことが出来なくなる。
この「自然」というのがはっきりいって曲者なのです。
ここは右派、左派というくくりではない。
扶桑においては他国にない特殊な区分がここで出てくるのです。
すなわち仏教的な自然と、キリスト教的な自然。
内田先生はキリスト教に親和的です。
それだけが理由なのではないのでしょうが、ここの「自然物」には仏教的なものよりキリスト教的なもののにおいがするのです。
少なくともこの部分の論理展開はキリスト的な感じを受けます。
言葉を返せば仏教的な視点からはこの論述は形成されない。
異論はありましょうから深くは掘り下げませんが。
私が国旗国歌に対する業務命令や法的強制に原則的につねに反対してきたのは、それがこの健全な市民への成熟の行程の妨げになると思うからである。
「国民国家とは何か」についてひとりひとりが、自己責任において、思量することこそが国民国家成員にとっては不可避の義務である。
それは自分の代わりに他人に考えてもらうことではないし、他人に命令されることでもない。
国民国家に対する態度を自己責任で決定するものが国民である。
(中略)
この憲法前文を書いたのが実際には何人かのアメリカ人であるという歴史的事実を知った上で、なお「日本国民は」という名乗りをなすような「集合的叡智」が当為として存立しなければならないというふう考えることができるのが、成熟した国民である。
ここからが本題です。
内田先生は上記のような言明をしています。
実に深い見識です。
これが一転、急降下爆撃機のように旋回して攻撃を始めます。
「リアリスト」の目には学校は「自己利益を追求するだけで、特権にあぐらをかいている公務員たちの巣窟」に見える。
欲望や卑屈さが教職員たち全員を共軛する集合的性格としてありうるということを信じているこの人々は、「教育的理想の実現をめざす」という集合的性格が教職員たちに共通して存在するということは信じない。
政治の教育への介入を拒否するのは「既得権益を死守する」のためのふるまいであるということは信じるが、それが「教育的理想を死守する」ためのふるまいである可能性は勘定に入れない。
一見、内田先生やあるいは左派の人が橋下市長や右派の人を難じているように感じられます。
でも良く見るとおかしい。
何故、内田先生は橋下市長の感覚を上記のように捉え得るのか。
一般化すると左派の人は右派の人をそう感じるのか。
一つの理由としては、
みんな見たいように見るから
というのがあると思います。
確かに右派の人は左派の人を上記のように見ているのかもしれない。
しかし、左派の人が右派の人を上記のように見ているということも同時に言えるのです。
すなわち、
上記の記述は逆転し得る
トリックアートです。
背景と柄を入れ替えてみてください。
左派がかように浅薄に把握して右派を攻撃しているように見えませんか。
次の文で明らかになります。
人間が醜悪で卑劣な動機から行動することは信じるが、何かしら崇高で非利己的な目的のために行動することは信じない。
これは右派、左派どちらにも通じることです。
例えば内田先生が左派だとして(多分違うと思うけど)、右派に対して上記の攻撃を行ったとします。
それはそっくりそのまま反射衛星砲の如く自らに跳ね返ってくるのです。
全く見事に。
「私欲と我執だけが信じられる唯一の現実だ」という人間理解に居着いた「リアリスト」がそこから解放されることは困難である。
そして、そのような「リアリスト」は「すでに存在する現実」について微細な報告をなすことはできるけれど、「これから存在させるべき現実」について、手触りのはっきりした、ひろびろとしたイメージを語ることができない。
集団的な統合を果たすためには、「人間は非利己的で、崇高な目的をめざして行動するときに、もっともそのパフォーマンスを高める」という人間性についての
「確信」が必要なのだが、「リアリスト」の観察した事例のうちには、そのような人間観を担保してくれる経験がどこにも存在しないからである。
既に述べたようにこの「リアリスト」は石原御大だけが対象ではないのです。
完全に左派原理派にも跳ね返ってくるのです。
当該エントリーは、一見反橋下反石原に見えるのだけれど、反転させると反左翼に転化します。
ひょっとすると反内田かも。
狙って書いたのだとすると、すごい人だ。
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実に味わい深いエントリーなので各々が独自に見るといいと思う。
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