5月31日の雑感
◆WHO(世界保健機関)改革の裏側(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/05/who-996e.html
能力で選ばれたはずの組織のトップが危機に際して対応できなかったりする。
◆【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 学者がもてない社会?(産経)
http://www.sankei.com/column/news/150530/clm1505300004-n1.html
能力で選ばれたはずの学者が行政に対しまるで役に立たないことをする。
近代以前、政治、行政、組織などは主に血統で考えられていた。
一般人への高等教育が普及していなかった前近代、血統群の方が実力があると見られていた。
だからこそ、前近代の物語では身分の低い実力者が困難な状況を救うものや、逆に身分の低い実力者が排除されたために、無能な血統者が困難な状況を救えないものがよくある。
さて、近代になり多くの組織では教養人、学者、政治家などが重要な席に着くことが多くなった。
高等教育の層が広がり血統群より多くの人材をそろえることが可能となったからである。
こうした教養人、学者、政治家をまとめてtechnical、略してテクノと呼ぶ。
問題はテクノがどれだけ実践力を持つか。
競争を勝ち抜いてきたのだから当然前近代の血統者優先の社会よりはまし、と思いたいところだが、血統者もテクノも実践力で選ばれたわけではない。
血統者は血統で選ばれるし、テクノは試験の成績や選挙やプレゼンテーションで選ばれる。
もちろんこれらで選ばれるからには実践力があることは期待されるが、実践力があって選ばれたわけでは必ずしもない。
血統者と同じく、テクノが実践力を持つというのは幻影なのだ。
この問題を前近代で示していたのが実は清代以前の中国王朝だ。
中国王朝は科挙というシステムで人材探索を行っているが、決め手はテストの点、プレゼンテーション、選挙。
ざっと実践力より政治力のある人が選ばれやすい。
実力もある人が選ばれると良いが、政治力だけで実践力がない人が選ばれると危機の際には非常に困る。
その科挙の欠点というものが近代のテクノにも引き継がれている。
中国、韓国は歴史的背景もあって政治力がある人がテクノに選ばれる傾向にあるといえる。
例えばチャンWHO事務局長の様に政治力でテクノを選んだ場合危機の際に非常に困る。
その他、例えば国際機関で政治力で選ばれたテクノが増え続けると、つまりは実践力より理念が優先するテクノが増え続けると、かなり乱世になるだろう。
そんな気がする。
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