アメリカの2名の研究者が史実に基づき客観的にこれを検証した本書。
本来の意味での修正主義史観による研究成果となっています。
とはいえアキタ教授は日系だからということで色眼鏡で見られることは覚悟の上だったようです。
この系統の書籍を紹介するのにいつも使う手ですが、まず章立てを記します。
Ⅰ 統治研究の最前線
1章 修正主義史観と民族主義史観
2章 日本の統治に対する民族史観的な非難
3章 徴兵制度に見る朝鮮統治の特性
Ⅱ 統治の実相
4章 朝鮮統治の主役たち
5章 日本統治下の朝鮮の暮らし
6章 日本の台湾統治
7章 日本統治下のフィリピン
Ⅲ 統治と司法
8章 同化政策と明治憲法
9章 大津事件と日本の朝鮮政策
10章 開かれた多元社会としての日本
11章 日本と法の支配
12章 一九三〇年代の日本における司法の独立と朝鮮統治政策
Ⅳ 日本の統治と近代化
13章 明治日本は開かれた近代社会だった
14章 中国における近代化の現状
15章 欧米と日本の植民地政策を比較する
Ⅴ 軍人と文官
16章 朝鮮政策における”軍部の指導性”神話
Ⅵ 統治政策の評価
17章 修正主義陣営の多様な声
18章 「九分どおり公平(フェア)だった」朝鮮統治
韓国・朝鮮の人及びリベラル派から見れば噴飯ものの内容と映るでしょうが、概ねこんな感じだったかと。
今までの日本の朝鮮統治に関する論文が、わりと民族史観に影響を受けていたと論じます。
実際には明治政府が日本国内の統治を進めていったときに出会った困難と、朝鮮統治を進めていったときに出会った困難とは意外と似ていたのではないでしょうか。
だからこそ、朝鮮統治も日本でできたのだからいずれできると思っていたのではないでしょうか、そんな印象をこの本から受けます。
しかしながら、この本を見たからこそ次のようなことが思われるのです。
日本の朝鮮併合及び統治は最終的に失敗することが運命づけられていたのではないでしょうか。
それは当時から見て未来に当たる現在の様子が、まさにそれを証明していると思われるのです。
当時の日本が朝鮮の伝統を改革して欧米化を進めるということは、日本人を人間としてみたことのない朝鮮の人にとっては反抗の材料であり、そして日本が敗戦国となってからは日本を攻撃する材料となった、こう感じるのです。
日本の統治が朝鮮に近代化をもたらしたという、この本でも述べられているものですが、そうした言説も、朝鮮の人は所詮日本人を人間としてみなしていないので、無意味と受け止められます。魔族がインフラ整備をしてくれたからといって喜ぶ人間は稀でしょう。
明治政府は朝鮮の人が最終的に日本人を人間と見てくれることに希望を持っていたようですが、こうなれば畢竟夢物語であったのだということがわかります。
これとともに、当然ではありますがリベラルが夢想する日本と朝鮮の和解などは無謀であります。
あるいはリベラルは朝鮮の人が日本人を人間とみなさないことを日本人に対して認めさせることを以って和解(従属)と考えているのかもしれませんが、これは無謀を通り越して愚劣であるといえましょう。
現在の状況においてはこの話題で意見の一致をみるというのは不可能であるといえましょう。
韓国・朝鮮の民族史観、中国共産党の党史観がある限りにおいては、なかなか折り合いをつけるのは難しいでしょう。しかも、世界の主要国である欧米は、日本人が人間であると感じない人も多いことから、こうした民族史観、党史観に親和的です。ざっくり言うと敗戦国の日本より中韓の言うことが妥当だと感じているのです。
このような環境の中で日本は日本として立って歩いて行くことが求められます。
勝算無く地動説を唱えて火刑に処されたブルーノを他山の石とすべきなのです。
それでも地球は回っているのですから。
そして最後に一つ。
第17章、268頁になりますが、米ヘンドリックス大学助教授スプランガー氏の著述の引用として、
「『文化政治』が発足する以前から、植民地の役人たちは『明らかに世論の動向に関心を抱いており、……朝鮮併合以来、一貫して、朝鮮人民および朝鮮の中の国際社会の批判を和らげる措置を講じていた』
とあります。
これは朝鮮総督府下の裁判所が朝鮮の世論に注目して朝鮮統治を円滑にしていこうということであったということだと思われます。
これと対比して第8章から何度も取り上げられる、大津事件で世論や明治政府(間接的にはロシア政府も)から圧力を受けながら津田巡査をついに死刑にはしなかったのと対照的ともいえます。
韓国の裁判所があまりにも情治であるのは、ひょっとしたらこれも繋がっているのかもしれません。
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