「日本死ね」と流行語大賞と
◆日本死ね、流行語大賞の表彰式に山尾議員が出てきて大炎上 - 芸能ニュース
https://geinou-news.jp/articles/2016-%E6%B5%81%E8%A1%8C%E8%AA%9E%E5%A4%A7%E8%B3%9E-%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E5%BF%97%E6%A1%9C%E9%87%8C-%E7%82%8E%E4%B8%8A
なんというか、いろいろ燃料を投下してくれます。
「死ね」という言葉を流行語大賞にするユーキャンも勇者でしょうね。
この件は過去にもブログ界隈で話題になっていました。
◆「日本死ね」と言うべきだっただろうか? - 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2016/04/post-2a0b.html
<言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日本死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。>
原因となった発言は、多分に育児支援の薄さを嘆いて発せられたものだろうと思われるので、いい悪いは置いておくとして、まあ短慮だったという感じはします。
もし件の山尾議員が書いたものだったとしても、実は状況はあまり変わらず、短慮でしたねという感じです。
この騒動の主な動力は、原因のブログやツイッターではなく、この「日本死ね」を正義とみなす人たちと、これに反発する人たち、その上で反発する人たちを非難する人たちと、かなり多段階に及んでいます。
まず最初に行うことは、
・困っているから「日本死ね」に共感せざるを得ない人たち
と、
・「日本死ね」を利用して日本人は人間ではないことを再確認したい人たち
を区別する必要があることです。
次に、
・「日本死ね」に日本人を人間とみなさない空気を感じ取って反発している人たち
と、
・「日本死ね」に共感せざるを得ない人たちの気持ちを誤読する人たち
を区別しないといけません。
さらに、
・反発を、「反日。国賊。売国奴」を言っていると利用したい人たち
と、
・困っている人に何故共感しないのだと義憤にかられる人たち
を区別しないといけません。
以上の分解を行った後に、状況を俯瞰してみたいと思います。
当初の「日本死ね」に込められた思いは、自分の状況の困難さを誰か何とかしてくれ、という魂の叫びだったのかもしれません。
意見の表明はあってよいことだと思いますが、それについて「死ね」という言葉を使用したのはちょっと短慮だったと思います。
これを利用する人が出てきます。
困っている人を助けたいという正義の心情は良いのですが、そうでない向きが発生します。
「日本死ね」を日本社会及び日本人を非人類的なものとして糾弾するというものです。
これは日本人の中からはあまり出てきません。
自分たちが非人類的というのは素直な発想ではありません。
日本人が非人類的という発想は、欧米中韓といった外国からしか出てこない。
finalventさんが書いたように、日本人が外国人を非人類的とみなせばそれはけっこう非難されることですが、それはそれとして日本人を非人類的とみなしてもかまわない、ということにはならないでしょう。
出羽守、左翼、赤軍、世界市民、それぞれ「外国の物語」を用いて日本に物言う人たちですが、欧米中韓の人たちが日本人を非人類とするような「物語」をそのまま使っているようです。
「外国の物語」だから日本人は人類ではないし「日本死ね」という言葉も違和感なく使用できる。
4マス(新聞、雑誌、ラジオ、テレビ)のかなりの割合が、そういう物語を受け入れているようです。
原因の「日本死ね」がどれくらいの温度だったかは書いた本人に聞かないとわかりませんが、これを利用した人は「外国の物語」で日本人が非人類であるとの根拠にしたかったと感じられます。
日本の人々が反発したら「また、反日、国賊、売国奴扱いするのか」と逆切れすることも込みで。
そういう日本人を人間と見ない人々がいる世界と我々は対峙しているということを忘れないようにしないといけません。
何度も言いますが、だから外国人は人間ではないんだ、というのはダメです。
それはanti roleに対して怒れば、それはanti-anti roleになって最後には自らがanti roleになる。
ダークサイドに対して正義の怒りをぶつければ、フォースは失われ自らがダークサイドに陥るのです。
アナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーに何故なったか、思い出してください。
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