余裕がないから制限がある
制限がある場合
世の中にはいろいろ制限がある。女性はあれしちゃいけない、子供はこれしちゃいけない、余所者は入っちゃいけない、ここは許可ある者しか入れない、などなど。理由のあるものもあれば理由のないものもある。子供は酒タバコはダメというのは心と体への悪影響が大きいからだし、妊婦さんが服用できない薬があるのはお腹の赤ちゃんへの影響を考えてのことだ。余所者が入ると押してはいけないスイッチに触れるかもしれないし、許可がないものが入ると秘密保持に支障があるのかもしれない。
制限があったとしても
とはいえ、女性には教育は不要だとかいろいろ変な制限は昔から存在する。
しかし、そんな変な制限がある時代でも女の子が教育など受けてその世界では有名な存在になることはままある。優秀な女の子であっても通常は制限をされている時代、どんな風に出現したのだろうか。まずは環境だろう。家が裕福でないと教育は施せない。そして当然ながら本人が優秀であること。
このように彼女が長じて有名人となったのは環境に余裕があったからだと思われる。教育を受けられるだけの金銭的余裕、そして親と周囲からの制限のなさ。そう考えると現代でも余裕のあるところでは自由な教育や行動が許されていて、一方余裕のないところでは自由や教育は制限されている。
物資が無尽蔵にあればどんな思想も可能
よく言われることであるが共産党でさえ物資が無尽蔵にあれば誰も困ることなく生活していける。それは王政だろうが独裁政権だろうが同じである。その反対に物資が不足すれば民主主義だろうが資本主義だろうが限られた資源の奪い合いとなって貧富の格差が生じてくる。
そしてその貧富の差を押し付けるために、女性、異国人、異なる思想が利用される。右派も左派も相手を資源や資本や社会システムの独占者として難詰する。それは実際に圧力をかけられている場合もあるだろうが、政権を奪取したら相手に押し付けようとしている方針でもあるだろう。
物資が必要
左派界隈が、日本および日本人をそういう略奪者として批判するのは、外国を利用して自分たちが政権を奪取したいというのが眼目で、別に今虐げられている人を救おうというのではない。なぜならば必要な物資がないからたとえ政権を取ったとしても救う原資がないからだ。経済の仕組みをきちんと変えないと誰が何をやってもうまく行かない。歴史上の革命が良く失敗しているのはそのせいだ。
とりとめもなくなったので、今日はここまでにします。
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