人類が勝てなかったものとして、表向きは飢餓、疫病、戦争が挙げられる。
しかしこれら外因性のもの以外に、人類が内在する危険な因子とそれと相性の悪い因子がある。
危険な因子は、一般的に支配として知られるものであり、それと相性の悪い因子は、一般的に友情として知られるものである。
社会の割合論として
こうした因子は社会の中で一定の割合をもって発生すると想定される。
本当は精査したら違うと思われるが、ざっと支配が2割、友情が2割、中立が6割という社会で考える。
例えば友情が優位な社会があれば、中立の6割は友情が正しいと認識するので、全体として友情が8割、支配が2割となる。この社会では支配は正しくないこととされる。
一方で支配が優位な社会ではこれとは反対に、支配が8割、友情が2割となる。この社会では支配することが当然であり、友情は惰弱と認識される。
世界中の国や地域で何が優位かによってその社会がどのようなものになるかが規定され、その社会での支配と友情が全く異なる要素として認識され、違う立場に立たされる。
そして時代によって優位が変わると、その国や地方のありようががらりと変わることも起きる。
がらりと変わっても、因子の割合はさほど変わっていないのである。
国や地方の単位ではないもの
国や地方といった単位で考えるとわかりやすいが、ことはそう簡単ではない。
宗教や思想といったものは国や地方といった枠組みにはないものである。。
例えばキリスト教など友情の性格が強いと思われる組織であるが、中世では支配が優勢で魔女狩りや異端審問などが盛んにおこなわれたことで知られている。
また共産主義などは資本主義に対抗する目的からかなり支配が優位な存在である。
その資本主義もその性格上、支配が優位になりやすい。
こういったものが国や地方とは独立して存在するのである。
存在が交差するところは何が起こるだろうか。
友情が優位なところと支配が優位なところが同時に存在すると共存できるか。
できないのである。
あるいは支配優位と支配優位が同時に存在すると、どちらが優位かで競争が起きる。
そして全てが支配になる
これを踏まえて社会で起こっていることを見てみよう。
例えば友情が優位な社会で、資本主義、マスメディア、宗教など支配が優位な組織が出てくると、中立のものが次第に支配の方向に傾き、ついには全体が支配優位な社会になる。
この時、友情優位から支配優位に変化することによる社会の混乱は大変なもので、友情も支配に対抗するため自ら支配の性格を帯びることになる。つまり、この社会ではどちらが勝っても支配が優位になってしまうのである。
また支配優位の勢力は、他へ浸透しようとする。
それが武力か、経済力か、政治力かは手段であって、支配優位というものを広げるのが目的である。
支配が強いことを認識する
マスメディアとか特定の宗教団体、ポリティカルコレクトネス、特定の政治団体などは、既に支配優位の勢いである。資本主義や学校も支配優位の風潮になっている。
こういったところが友情優位で残っているところと争いを起こすのである。
もともとマスメディア、宗教、思想、政治、学校などはどちらが優位かというものではない。
だからこれらを攻撃したところで何も得られるものはない。
そして支配という概念を攻撃する手段はない。
だから、その国、メディア、ポリティカルコレクトネスなどを排除しようとすると、支配との争いになり、負けるか自分が支配に転じてしまう。
そうではなく、その国、メディア、ポリティカルコレクトネスなどがこちらを敵視するときは、それらが支配優位の存在であることを認識し、できるだけ多くの仲間を友情の中に入れることが大切である。
支配は強いので、強くある、仲間を募る、支配には負けないことを表明することで、対抗するのである。
これは難しいことであるが、支配は一定数生まれるので仕方がないことである。
ただ、友情も一定数生まれるので、それなりに負けない戦いをすることはできるだろう。
本日はここまでにしたいと思います。
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