”科学が生まれ進化するには何が必要なのか。エジプトや中国をはじめ巨大文明を生んだ地域も、哲学で名高いギリシアにおいても科学を創造し発展させることはできなかったのである。なぜなのか”
著者はこの問題に対して、科学が進化するための5つの条件があるとします。
1.言語能力の余剰
2.整合的世界
3.経験知の獲得
4.過程論
5.文明社会
言語能力の余剰とは、架空のことを表現できる言語の能力のことを指し、西欧キリスト教社会、日本、その他とも満たしているとします。もう少し進めると、実在世界の事象を言語で記述すること、すなわち「写像」により言語世界に実在世界の像を書くことができれば科学、そして言語世界を実在世界に写像する活動が技術。科学と技術は相互作用で共進化することになります。
整合的世界とは、自然の整合性を認識することで、ユダヤ、キリスト教社会の様な一神教では明快ですが、一方、日本の様な多神教の社会では自然は矛盾を含む存在であるとなるが、こうした矛盾世界観が日本社会に科学が生まれなかった最大の原因としています。
経験知を許すという点では中世キリスト教神学ならびにスコラ哲学が邪魔をしていたが、デカルト、ベーコンといった哲学者が解放したとしています。キリスト教という基盤(整合的世界)がありながらキリスト教という先験知から脱却するという複雑な歴史を経ているとみています。ここで先験知は宗教の協議やイデオロギーのように、言語で記述される形式知の中で経験による修正を許さない知識を指します。
因果関係の連鎖という形で事象が起きる過程で記述するのが過程論で、アリストテレスが用いた目的論は事象をその存在の目的により記述するものでこれは過程論の反対になります。キリスト教社会では神の意志という面で過程論、すなわち科学の成立を阻害するところであるが、案外緩い束縛であったと考えられるとしています。
文明社会については、科学の進歩には専門家の数の力が必要となるので、これには文明社会であることが必要になるという話になります。
コペルニクスの地動説(16世紀)、ニュートンのプリンキピア(17世紀)から始まる科学。なぜ日本に科学が生まれなかったか。
日本社会が科学を生まなかった本質的理由は、世界は矛盾を含む存在であるとする矛盾世界観を持つことにある著者は考えています。
科学の必要条件である整合的世界観を持たなかった結果として、文化の成熟が対応する時代の西欧キリスト教社会と同等あるいはそれ以上であったにもかかわらず科学を生まなかったのです。
関孝和の和算や華岡青洲の麻酔を考えると、確かにこの点で科学が始まらなかったのだということでしょう。
科学が日本では始まらず西欧で始まったのはこんな理由があったということですが、一方で整合的世界を持つキリスト教社会でもその呪縛で16~17世紀までは科学が始まらず別のトリガー(従来のキリスト教思想を超える哲学)があってやっと始まったという考え方は、ちょっと興味を引きます。
さて、ここでいう科学は自然科学ですが、一方で人文社会科学という分野があります。人文社会科学の成果は整合的ではありません。「科学者以外の人が社会科学に参加できる」という面を持ちます。矛盾を含む事象を矛盾を含まない体系に写像することは不可能で、対象世界に整合性を持たせようとすると、”これを社会という言語世界に矛盾を含まない部分を作り、それを人と社会に押しつけ、それ以外の思考を許さないようにしなかればならない。中世キリスト教社会、共産主義社会、そしてナチズムの社会は人類がかつてもったこのような社会の例である”と。
大変深い考察が書かれています。
さらに、科学の発展とともに科学者以外の人々にとっては科学はブラックボックス化し、不安や恐怖を抱くようになり(最近の社会にみられる)反科学技術の動きが現れると論じています。
この動きは科学という営みへの社会からの介入を招きます。中世キリスト教社会における教会の介入の再来を思い起こさせます。なお、当時科学の萌芽となる活動に介入したのは神職者という当時の最高の知性を有する人々だったという歴史がとても印象に残ります。さらに科学時代に入った19世紀でも、ダーウィンの進化論に最も反論していたのは当時最高の物理学者であったケルビンでした。
すなわち、今日の科学への社会からの介入は民主主義のもとで一般社会人からなされており、科学という営みに社会の平均レベルの知性が介入して制約するという状況になります。
なんとなく世界が中世化しているという気分を感じていましたが、この本を読むとちょっと怖くなります。
こんな感じでなんとなくこの本を手に取って読んでみましたが、大変示唆に富んだ書きぶりに興奮するとともになんだか暗い気持ちになったりしたのはこの本の罪でしょうか。
最近のコメント